上杉景勝から高く「評価」された本庄繁長
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第89回
■御館の乱を経て変わった繁長の「評価」
謙信が亡くなると景勝と景虎(かげとら)による「御館(おたて)の乱」と呼ばれる家督争いが起こります。
繁長は景勝に味方し勝利に貢献しています。尚、長男顕長(あきなが)は景虎方についており、本庄家の生き残り策を取っていたようです。
直後に、同じ揚北衆の新発田重家(しばたしげいえ)が反乱を起こすと、その武勇を期待され、中心となって謀反に対処しています。この時の功績により、上杉家の「竹に飛雀」の紋の使用を許され、一門衆を除いた最上位の席次とされたと言われています。
さらに乱の鎮圧後、北に隣接する庄内地方の攻略でも中心的な存在となります。庄内を本拠とする大宝寺(だいほうじ)家の養子として次男義勝を送り、十五里ヶ原の戦いで最上義光(もがみよしあき)の軍を破り、上杉家の支配を確定させています。
繁長は御館の乱で弱体化していた上杉家の勢力圏を、新発田重家の鎮圧と庄内平定により、最大化することに成功しました。
しかし、その後に起きた一揆の煽動を疑われ、繁長父子は大和国へ流罪とされます。これは家臣内での派閥争いが原因と言われていますが、上杉家中における本庄家の勢力拡大を危惧されたための冤罪という説もあります。
■関ヶ原の戦いにおいての再「評価」
1592年の文禄の役(ぶんろくのえき)に参陣したことで、繁長は赦免されて1万石で帰参します。
関ヶ原の戦いでは、家康の会津討伐に備えて福島城を任されています。本戦での西軍敗北の報を受けて、旧領回復を狙う伊達家が攻め込んでくると、これを巧みに撃退し福島城の死守に成功しました。
この勝利により家中における繁長の発言権が回復すると、徳川家との早期の講和交渉を主張します。
景勝からの信任を受けると、伏見に上洛し、徳川家との折衝を主導していきます。繁長のこれまでの武名と、伊達家から福島城を死守した武功が、交渉において有効になると「評価」されたためと言われています。
最終的に繁長たちの奔走が実り、上杉家は改易を免れ、米沢30万石への減封にて決着できました。
これらの活躍が、高く「評価」され、米沢藩では一門衆に次ぐ席次である第5位を与えられたとされています。
■高い「評価」が生む警戒
繁長はその武勇や活躍により、高く「評価」され、最終的に米沢藩における家臣団で最上位の席次を与えられる存在となりました。
しかし、謀反と改易により上杉家から離れた事や、関ヶ原の戦い後に徳川家との講和を主張した事などで、現代における一般的な「評価」が低くなっているようです。
現代でも、組織運営に絶大な貢献をしていても、内部事情や背景を知らない外部からの「評価」が低くなる場合が多々あります。
もし、繁長が上杉家から離れることがなければ、直江兼続に匹敵する「評価」を受けていたかもしれません。
ちなみに、繁長の孫の本庄信秀が、信玄の6男から始まる米沢武田家を継承することになります。
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